消え去った大連の日本家屋-高尓基路周辺

大連に駐在していた友人は一年ぶりに大連の日本家屋に関する報告の続きを送ってくれました。 今回はその第三段。 高尓基路周辺を紹介してもらいました。 日本国内ではほとんど残っていない、先の大戦前からの日本家屋を外地で見れるのも不思議なものです。 しかし、それらも徐々に取り壊しの運命にあるのですね。 取り壊される前に、一度見てみたいものです。 (写真をクリックすると拡大します)
日露戦争後の1905年、ポーツマス条約に基づき、ロシアより引き継いだ清朝からの租借地が関東州(以下、大連)。ここを拠点に後の満州国が展開されるが、ロシア時代からの有数の貿易港であったことから、軍、政だけでなく民でも多くの日本人が移り住み発展を遂げる。1940年当時で全人口100万人、内日本人は20万人弱、5人に1人が日本人の街として多数の日本人家屋が大連じゅうに建ち並んでいく。戦後65年、租借開始後105年の年月が経った今、老朽化は激しいが当時の日本人家屋がいくつか残存している。だが近年の中国経済の象徴のひとつ、不動産開発の波にひどく老朽化した日本人家屋の土地は狙われ、2010年より撤去され始め、今は一部を除き、殆どが更地と化してしまった。かつての日本人が生活していた面影を日本家屋を通じてご紹介します。昨年に、大連で残存した日本家屋の3地区の全体像、その内のひとつ南山地区をご紹介しました。今回は、2つめの高尓基路地区です。 

画像 
さて、地図を見てみましょう。ここは、関東州庁(今の大連市政府)つまり政治の中心地に間近だったことから、政府関連、商業、銀行系そして満鉄関係者が多く居住していたそうです。元々、日本人は青線囲みを中心に東は大連駅の方まで、西は西安路(地図より更に西側)、そして南は星海広場あたりまで居住していたようです。戦後は大連市や鉄道部が周辺をさっさと取り壊しアパート建設しましたが、政府に縁のある中国人が住み着いた青線囲みの一帯だけは残したようです。ですが、2011年4月には、撤去がほぼ完了してしまいました。これら写真は、2011年1月のものです。 

画像
幹線道路の長春路沿いにある、色もお洒落な一軒家です。 

画像
窓枠はアルミサッシで補修されていますが、屋根瓦や雨どいのある典型的な日本家屋の造りです。中国には基本的に、雨どいはありません。 

画像
アーチ型をした玄関や窓は多いですね。 

画像
これにはベランダがありますが、感じとしては二世帯住宅(左右)の作りをしていたようです。 

画像 
この日は、多少暖か(5度くらい)だった為か、住み家を失った猫が日向ぼっこしていました。この猫、これからどうするのかな?

画像
壁の殆どは煉瓦積み(断熱性高い)なので、煉瓦の瓦礫となってしまいます。 

画像
これは見た目通りに日本の山荘風。屋根は木造で、未だ完全に朽ち果てることもなく、数十年以上の歴史を感じさせます。 

画像
この家は間口は狭いのですが、奥に伸びていました。玄関は凝った作りをしています。 

画像
この形はどこにでも見られますので、典型的な作りなのかも。丸窓というのが当時はモダンだったのでしょう。 

画像 
これは屋根のない作り。日本家屋と言うよりも、ロシア設計を取り入れたということのようです。 

画像
アカシアの街路樹です。でも、その太さから見て、後から植えられたものでしょう。冬になって現れるカササギの巣があります。でも次回はここに帰ってきても巣は無くなってしまっているでしょう。
 


画像
これも和洋折衷(屋根は瓦、玄関は洋式)で、典型的な作りです。
 


画像
門構えが立派ですが、彫り物も欠けずに残存していたことに感動します。
 


画像
外観は洋館風情でも、室内は、鴨居、欄間、押し入れなど、日本そのものです。 

画像
この高尓基路地区は、恐らくたくさんの人が住んでいたのでしょう。たくさん居住させる為か、間口は比較的狭く、奥行きのある家が多い様です。 

画像
南山地区だと住人の特徴(軍人や高官)もあってか2階建てが多いようですが、ここは平屋の方が目立ちます。 

画像 
これは幹線道路の高尓基路沿いに建つ一軒家です。両側は民間アパートに挟まれています。まるで童話の「小さなお家」のよう。小物のお店のようですが、これは政府に関係ある人のものかもしれないので、壊されずに残るでしょう。

画像
地図で凸の出っ張ったところは、元は競技場でしたが、完全に取り壊され、西方の再開発地域に移転し、より立派なものが建ちます。跡地には、非常災害避難も含め緑地公園にするという良い噂がありましたが、やはり良い噂は実現せず。デベロッパーにより、マンション群が建設されます。 

画像
これは日本家屋ではなく公務員アパートですが、建物看板に注目。レールマークなので鉄道部(旧満鉄)のアパートですね。やはり昔は満鉄関係者が多かったということが分かります。 

画像
今で言うタウンハウス的な作りですね。3軒くっついていますが、当時にすれば、これは官舎だったのかもしれません。この形は南山地区にもありました。 

画像
この日はもうすぐ春節なので作業はお休みのようです。クレーンで鉄球をぶつけながら取り壊しながら撤去しているようです。 

画像 
懐かしそうな?ポスターが残っていました。アイドルなんでしょうか?でも、若者が住んでいた感じでは無さそう。 

画像
やはり名残惜しいのか、感謝の気持ちなのか?春節の爆竹をたくさん鳴らしたようです。赤いのは、もみじではなく、爆竹の残骸です。 

画像
この家は、綺麗に維持されていたようですね。壁も屋根もしっかりしています。でも、取り壊しの運命に・・・。 

以上が、高尓基路地区のご紹介でした。南山地区と異なり、居住している家は殆どなく(数件程度)、写真でご覧の通り、廃墟と化していました。この跡地が一体どういう形で再開発されるのでしょう?マンションやショッピングセンターが密集した複合施設が立ち並ぶことでしょうか?・・・と現地に聞けば、未だ具体的なものは建っておらず、更地だったり、部分的に基礎工事していたりだそうです。多分、鉄道、軍、市政府の権益が入り交じった面倒くさそうな地区なので、すんなりとは進まないのでしょうか? 

「大連の消えゆく日本家屋」のシリーズ


はじめに
http://ja1uoa1951.at.webry.info/201102/article_3.html

南山路周辺
http://ja1uoa1951.at.webry.info/201103/article_2.html

高尓基路周辺
http://ja1uoa1951.at.webry.info/201205/article_4.html

文化街周辺
http://ja1uoa1951.at.webry.info/201205/article_5.html

大連市内
http://ja1uoa1951.at.webry.info/201205/article_6.html 

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 2

驚いた
ナイス

この記事へのコメント