大連の消えゆく日本家屋-はじめに

大連の友人から大連の日本家屋に関する報告を送ってくれました。
大連の殆どの場所に日本人は住んでいました。が、今現存するのは3カ所、色々な形の家屋があること、それらが壊されることなどから、数枚で終わらせるのも何かと思い、全部で4つに分けて紹介します。
1)大連の消えゆく日本家屋-はじめに(今回)
2)同上-南山路地区
3)同上-高尓基路地区
4)同上-文化街地区 
(写真をクリックすると拡大します)

日露戦争後の1905年、ポーツマス条約に基づき、ロシアより引き継いだ清朝からの租借地が関東州(以下、大連)。ここを拠点に後の満州国が展開されるが、ロシア時代からの有数の貿易港であったことから、軍、政だけでなく民でも多くの日本人が移り住み発展を遂げる。1940年当時で全人口100万人、内日本人は20万人弱、5人に1人が日本人の街として多数の日本人家屋が大連じゅうに建ち並んでいく。戦後65年、租借開始後105年の年月が経った今、老朽化は激しいが当時の日本人家屋がいくつか残存している。だが近年の中国経済の象徴のひとつ、不動産開発の波にひどく老朽化した日本人家屋の土地は狙われ、まもなく全てが撤去される運命にあるようだ。半年以内には大連や日本の歴史の証人が影も形もなくなることから、記録の意味も込め、以降3回に分けて(少ない背景や情報を交え)大連の消えゆく日本人家屋をご紹介したいと思います。 

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大連市内の地図を見てみましょう。満州時代は至る所に日本人が居住、道路も地名も日本名を命名していました。現在、残存する日本人家屋は市内の3カ所にあります。1)南山路地区、2)高尓基路地区、3)文化街地区(観光等で来連された方のBlogなどでは南山路や高尓基路が多くご紹介されていますが、一般住宅地で観光ルートから外れる文化街の紹介は少ないようです)。何故この3カ所だけが最近まで残されていたのか、それらを裏付ける資料は十分に入手出来ておりません。人からの聞き伝え情報などを交えご紹介します。また、これら日本家屋の所有者は市政府らしいということは分かってきました。 

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まずは南山路地区です。青線で囲んだところに日本家屋が残存しています。写真で粒々に見えるのがそうです(以下同様)。当時はこの周辺から中山広場まで日本人は居住していたそうです当然、関係するオフィスビルなども多数あったようです(が今は殆ど残っていない)。今の南山地区は大連市内では最も閑静で高級な住宅地として有名です。満州時代には軍関連の多い中山広場に近いため、軍関係者が多く住んでいたそうです。終戦後は、家屋維持がしっかりしていたことや豊かな自然環境が手伝い、終戦後はここに多くの大連市政府役人や解放軍幹部が住み始めたそうです。ですが、訳ありの所以外の日本家屋は取り壊され国営系アパートが立ち並びました。そして10年ほど前から日本家屋の美しさを保存し観光地化すべく「南山日本風情街」として再開発、改修補強や新たに日本家屋風の戸建て住宅を立て直しました。ちなみに新たな戸建て住宅には(やはり?)政府幹部や国有企業幹部(金持ち)が住居していること、この南山路地区は大型マンション不可、戸建て住宅だけが建設可、となっているようです(市の条例らしい?)。 

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南山日本風情街と称しますが、完ぺきなる戸建て高級住宅街です。いわゆる豪邸が整然と建ち並びます。改修と新築があります(が、区別が付かない)。 

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このように残存する家屋はまもなく取り壊されます。 

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周辺は道路含め整備され、香港や中国資本の不動産業が再開発に取り組んでいます。この辺の住人は政府幹部が多いためか?質もしっかりした開発をしているようです。 

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次に高尓基路地区です。関東州庁(今の大連市政府)と政治の中心地に間近だったことから、政府関連、商業、銀行系そして満鉄関係者の日本人が多く居住していたそうです。元々、日本人は青線囲みを中心に東は大連駅の方まで、写真では切れていますが西は西安路、そして星海広場あたりまで居住していたようです。戦後は大連市や鉄道部が周辺をさっさと取り壊しアパート建設したが、政府に縁のある中国人が住み着いた一帯は残したようです。 

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心なしか、南山地区と比して小振りな住宅なようです。 

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北海道のような急傾斜の屋根の家が目立ちます。 

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外壁は煉瓦や石ですが、内側は木造で日本家屋だなと分かります。 


最後は文化街です。ここは中山広場からも関東州庁からも遠いのですが、商業の中心地が大連駅前であったことから、多くの民間人が大連駅から南に伸びる解放路沿いに居住していたようです。今、残存するのは八一路付近の丘の西側斜面一帯ですが、再開発のために既に取り壊しが始まっています。ちなみに労働公園隣の有名進学校である大連市第24中は旧春日小学校、旧校舎をそのまま使用しています(中国でのWebでは24中が日本の小学校だったことはどこにも書いてありません)。 

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民間人が多いのか、お洒落な家屋が多い様です。 

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こじんまりした家屋は、民間人のものなのでしょう。 

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文化街一帯の家屋には、大連在住日本人水準の差が見られるようです。 

残された3カ所の家屋を見るだけでも、日本の構図が分かるような気がします。南山地区)軍・政府・金融・鉄道関連=家が堅牢で大きい、高尓基路)政府・軍・鉄道関係者=家は中程度だが敷地が広い、文化街地区:民間人=豪邸~小さめの平屋まで千差万別。建築構造は基本が木造で外壁には漆喰の代わりに煉瓦を積んでいたようです。寒冷地仕様だからでしょうか、部屋ごと煙突が立っています(煙突数を数えれば部屋がいくつあるか分かる)。今の残存家屋は大ざっぱには1000軒も無く1世帯あたり6人居住として6000人、当時の日本人人口20万人といえば大連の至る所に住んでいたことは容易に分かります。
 ですが単純に感心?することばかりではないようです。何故、今までに3カ所だけが残っているか?或る方から伺った話です。この3カ所は、イ)政府や軍の幹部や関係者が多く住んでいる、ロ)撤去~新築(アパートなど)は膨大な金が必要、等の諸問題を抱えていたそうです。大連市の本音としては、幹部らを立ち退かせる費用や代替物件提供、新築(アパート)費用(予算)が当時少なかったこと、日本家屋は頑丈なので僅かな費用で改修すれば長期継続使用ができること等から、改修と再開発の費用が天秤に掛けられ結論が先送りされてきた経緯があるようです。しかも、優秀で美しい日本家屋の保存という名目において(現実には美観維持ではなく雨漏り改修とか柱補強といった程度のこと)。ですがここ10年の不動産開発投資は外資(特に香港)導入が一般化、上述の心配(金が無い)が政府に無くなった。故に、実は本音として早く撤去したかった日本家屋を取り壊し再開発の土地として利用するというのが、どうも本当のところのようです。これが大連における日本家屋の実態なのだと思いました。余談ですが、これら3カ所はナント90万m2もの土地(東京ドームの20倍)が確保できます。他にも細かい話を色々伺いましたが、以降に各地区をご紹介がてら、お話ししたいと思います。 


「大連の消えゆく日本家屋」のシリーズ


はじめに
http://ja1uoa1951.at.webry.info/201102/article_3.html

南山路周辺
http://ja1uoa1951.at.webry.info/201103/article_2.html

高尓基路周辺
http://ja1uoa1951.at.webry.info/201205/article_4.html

文化街周辺
http://ja1uoa1951.at.webry.info/201205/article_5.html

大連市内
http://ja1uoa1951.at.webry.info/201205/article_6.html 

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